■「この国のかたち」を追い求めて

●「この国のかたち」を見つける備忘録として

 


歴史とは不思議なものでこれだけ人類の科学技術が進歩したところで時間を戻し、歴史を遡る事はできません。よって流れ行く歴史の中の事象を文字として残しておかなければそれは歴史の中に埋没し消え去ってしまいます。また、文字を書き記す事は自分の記憶を鮮明に残すことでもあります。自らの備忘録としてもここに文字として書き残しておく意味があると思いました。

 


私は日本の文化は世界でも第一級の文化だと思っています。奇跡と呼ばれた明治の近代化を成し遂げた日本。戦後、焼け野原から驚異的な復興を果たした日本。そして今、大きな帰路に立つ私たち日本人。この日本という国をかたち作ってきた文化や習慣を「この国のかたち」と呼び、その姿を解き明かしたいと思います。これは壮大に壮大を重ねた達成不可能な問いであります。その為、私の一生をかけて、地道にその答えに少しでも近づけるように努力をしていきたいと思う決意です。

 

 

 

●私の中の「昭和」という時代意識

 


90年代以降の日本経済の停滞期に生を受けた私達の世代にとって、日本社会の先行きは不透明感を意識せずにはいられず、未来に対して今より自分の生活が良くなるという確信が持てません。

自分の親より良い生活ができると確信を持っていた昭和の時代とは現代社会に対する意識は明らかに違います。何故なら私達の親世代(戦後の昭和後期生まれを総称)は戦争という日本史上類を見ない激しい時代を自らの生存以前の時代として認識しているからです。太平洋戦争が日本人にとって絶望と屈辱の歴史であるならば、戦後の日本の高度経済成長と繁栄の歴史は、様々な問題を孕みながらも歴史上、世界で日本がいちばん輝いていた時代です。そんな昭和という幻想が私達の世代には「理想郷」として幼い頃から語られてきました。つまり、二つの世代間には自らの生存以前の時代が大袈裟に言えば地獄(戦争)と天国(ジャパンアズナンバーワン)のような対局的世界観として自らの意識の中に存在するのだと思うのです。

私の「昭和」という時代に理想のかたちを求める行為は司馬遼太郎さんが明治という時代に抱いた憧憬の念と共通点を持っているのではないかと思います。それは過去という時代の特性でもあるのですが。

 

 

 

●昭和という時代

 


昭和とはいかなる時代か。この激動の時代を短い文章で要約することは不可能であるがここに簡単に書き起こしてみたいと思う。

 


一面焼け野原になった小さな国が国家のかたちを一から作り変えようとしている。


人類の歴史を見ても太平洋戦争の日本ほど悲惨な国は無かったであろう。国民の食糧供給は追いつかず、都市は焼かれ、広島と長崎においては原子力爆弾が落ちた。 


太平洋戦争に敗れて、日本人達は初めて近代的な「国家」というものを持った。誰もが本当の「国民」になった。不慣れながら国民になった日本人達は日本史上の最初の体験者として新しい国家の有り様に興奮した。この痛々しいばかりの平和主義と人権感覚が無ければこの段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でもある一定の根気と能力さえあれば総理大臣にもなりえた。この時代の明るさはそれまでの国家主義的で重く暗い家父長制的国家体制の常識を否定して自らの手で国のありかたを作ろうとするところの楽天主義から来ている。


今から思えば実に滑稽な事に西と東に分かれた冷戦構造が支配する世界にあって軍隊を持たないこの国家の連中が、世界に類を見ない平和憲法を実現しようとした。一国の安全保障として成り立つはずがない。


しかし、ともかくも平和国家を作り上げようと言うのは、もともと戦後新生日本の大目的であったし、戦後の日本国民の少年のような希望であった。


太平洋戦争後、冷戦構造と経済復興の40年余りは文化史的にも精神史の上からでも長い日本史の中で実に特異である。これほど楽天的な時代はない。

 


むろん見方によってはそうではない。庶民は地価の高騰に喘ぎ、国権はあくまで重く、民権はあくまで軽く、三池で労働者は敗れ、60年安保があり、公害問題がありでそのような被害意識の中から見ればこれほど暗い時代はないであろう。


しかし、被害意識でのみ見ることが庶民の歴史ではない。


昭和は良かったという。


「降る雪や 昭和は遠くなりにけり」という中村草田男の澄み切った色彩世界がもつ一句を明治から昭和に変えたところで差し支えなかろう。

 


昭和という時代が読み込んだ書物や時代を駆け抜けた人間の言葉を通して私の歴史の中の日本という国家像を作りあげるのである。

 

 

 

●戦後日本の価値体系の喪失

 


戦後の日本人の価値観は日本国憲法の下で他律的に解放されました。これは日本国憲法の原則でもある民主主義、平和主義、基本的人権の三つに大別されます。ここで「他律的に解放された」という言葉を使用しましたが、これは一種の革命的な憲法が庶民による直接的な行為によって手にしたものではないという事です。しかし、例え憲法の制定過程が受け身の形であったとしても日本国民の切実な願いが込められた日本人の憲法である点に変わりはありません。日本人の日本国憲法に対する信頼は憲法制定後の世界情勢の流れの中で「逆コース」と呼ばれた揺れ戻しとその後の改憲勢力に対して日本国憲法を守ろうとする大きな動きと日本国民の憲法への信頼度が示すところです。このように戦後の日本の基本理念としての憲法は日本人の行動によってその条文が実現されたのです。

 


しかし、現在、日本の平和主義という理念は危機を迎えています。2015年には立憲主義を揺るがす安全保障関連法案が成立しました。戦後日本の基本理念は戦争体験の喪失とともに形骸化の一途を辿っています。

また、日本の伝統・文化に関しても事物としての風景だけでなく、日本人の精神構造に至っても大きな転換期に来ています。私が大人になるに連れて、生まれ育った街の風景は大きく変わりました。幼少期に走り回った谷保の田んぼは住宅街になりました。日本の農村風景だけではなく日本人の儒教的精神構造も変化していきます。占領政策の中での欧米文化の流入とグローバル社会によるマクドナルド化現象は日本の古き良き伝統・文化を形骸化させました。それは自国の文化に対する無自覚な日本人の出現という問題点も浮かび上がらせています。

そして、最後に指摘しなければならないものが「家」の喪失です。ネット社会の出現と価値観の多様化はウルリフ・ベックの言うところのリスク社会を生み出しました。個人の自由の拡大と引き換えに地域社会や家族という安心材料が消えたように感じます。00年代を境にした家制度の本格的解体はその最たる例です。

 


平和主義を基調とする憲法に裏打ちされた戦後日本の基本的理念の喪失(戦争体験の喪失によるところが大きい)、日本の精神構造も含めた伝統・文化の喪失、そして家制度の喪失という日本的特質の後退を問題意識として強く捉えると共に、危機感を覚えずにはいられません。

 

 

 

●21世紀社会システム

 


平成という30年間を私達はどう歴史の中に位置付ければ良いのか。私はこの平成時代を近世から続いてきた日本社会の大きな転換点の軸として捉える事が可能であると思います。21世紀の社会システムとして①グローバル社会、②情報化社会、③個人主義社会が展開されていくと思います。①、②は説明の必要はありませんが、③個人主義社会の到来は日本の近世社会から続いてきた農業を中心とする生存の為の「家制度」の形態を壊滅させます。それを可能とするのがグローバル社会と情報化社会であります。

 


●「この国のかたち」を紡ぐ

 


平成を一つの分岐点として新たな21世紀社会にあっても保守しなければならない価値体系は何か。それは民主主義であり平和憲法であり、日本の伝統・文化であり、家制度であり、それらを含めた日本人が長い歴史の中で体得し連綿と受け継いできた「この国のかたち」です。今こそ保守としての真価が問われている時代であると思うのです。

 


明治維新によってそれまでの日本の武士道や自然意識が急速に失われていったような時代がかつてありました。平成を一つの分岐点として再び大きな社会の変革期に日本は来ていると思うのです。そんな時代だからこそ令和の時代にも柳田国男は必要なのです。日本の伝統や文化の中から日本とは、日本人とは何かを見つけ出し「この国のかたち」を生涯を通じて見つけ出したいのです。そして「之を語りて平地人を戦慄せしめる」役割を担う人間が社会に1人や2人必要であると思います。

平和で文化的な国家として「この国のかたち」の新しいページを紡ぐ為にも未熟ながら歴史から学んだ事を記録したいと思っています。

 


渥美寅次郎