■戦後保守と戦争体験に対する考え方

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●戦後保守とは何か

 


戦後保守政治を定義すると抽象的で想像の域を出ることはないが以下のような特徴を有していると言える。

 


・自由で開放的な国際協調主義、平和主義を掲げて、国力にあった日米同盟基軸の外交と防衛を重視する政治。

 


・前の世代から次の世代へと良いものを受け継ぎ、残す。財政規律を重視して世代間の公平を大切にする。

 


立憲主義に基づき、手続きと妥協を重視する。野党との政策協議を重ねて国民的合意を目指す。

 


戦後保守はその対局として戦前保守、新保守主義に見られる理念や理論が先走る強権的な国家のあり方に対する強い懸念であり、それはまさに戦争体験に基づいていた。大平、田中初めてとする宏池会、平成研の潮流として戦後政治に強い影響を与えてきた。今、戦後保守政治は大きな帰路に立たされている。

 


●戦後保守の分裂と加藤の乱

 


政治改革へ熱を帯びた90年代初頭に、小沢グループが離党した事で経世会が割れる事態に陥ったが、戦後保守勢力が一直線に下降線を辿ったわけではない。90年代は戦後保守政治の時代だった。自社さ政権では河野洋平加藤紘一宏池会ラインが主導権を握り、95年の党大会での綱領的文書の見直しでは「自主憲法の制定」の党是は事実上棚上げされる事になる。その後の、自由党公明党との連立交渉を進めたのも野中・古賀ラインを中心とする戦後保守勢力であった。つまり、政治改革と冷戦構造の崩壊による90年代の連立政権の時代に自民党が対応できた要因は戦後保守政治の柔軟性と幅の広さにあると言える。そして、小渕内閣の誕生で再び財政出動による利益誘導政治の経世会支配が復活したかに見えた。

 


自自公連立を樹立し、再び財政出動による利益誘導の古い戦後保守政治を目指したのが平成研と宏池会の野中・古賀ラインである。一方で、バブル崩壊後の政治経済情勢に対応した小さな政府を志向しながらも、日本国憲法の精神とコンセンサスを重視する穏健な政治手法を取る「新しい時代の中道保守」を目指したのが加藤紘一だった。宏池会の中でも平成研や公明党との連立に前向きな古賀、堀内らと加藤らは一線を画した。加藤は野党の提出する森内閣への内閣不信任案に同調する動きを見せるも、小選挙区制の元で党の公認権を握る野中幹事長による切り崩しにより失敗。加藤の乱宏池会を2つに割るだけでなく、利益誘導型の古い戦後保守政治と新自由主義的な新しい戦後保守政治の潰し合いという悲劇に終わった。加藤の乱は戦後保守政治を決定的に衰退させ、その後の新自由主義新保守主義の台頭を招いた。

 


小泉改革とその後

 


古い経世会支配の復活は小泉政権の誕生でいとも簡単に崩壊した。経世会の支持基盤である全特、道路公団を破壊して、衆院参院も分断した。

小泉の政治手法は改革勢力と抵抗勢力という善悪二元論的な対立図式を作りあげて無党派層の支持を獲得するポピュリスト的な側面があり、同じ小さな政府を志向する戦後保守政治の加藤とは一線を画す。小泉は新自由主義者だったが、憲法改正靖国参拝には特段こだわらなかった。小泉時代宏池会に続き、平成研の衰退。もっとも顕著なのは脱派閥化の進行と右派理念グループの結集である。90年代に戦後保守の陰に隠れていた、新保守主義が台頭する。

 


最後の戦後保守政治の可能性をかけた福田内閣民主党との大連立に失敗した。これは二大政党制を前提にした小選挙区制のもとでは野党とのコンセンサスを重視した戦後保守政治の限界を示した。

 


●安倍政権とその後

 


民主党政権の誕生により、野党に転落した自民党中川昭一、その後の安倍による創世「日本」を中心とする派閥横断的保守理念グループ(新保守)が主流派を形成する。政権奪還後は前回の反省から安倍は池田と岸のハイブリッド(金融緩和と財政出動によるバラマキとタカ派的な政策の融合)で支持率を保ってきた。94年の政治改革は党執行部に公認権と政治資金で絶対的な権力を持たせた。前回18年の総裁選では安倍政権への逆風の中で異様な総裁選の雰囲気を肌で感じた。政権批判票は石破に流れたが党内では宏池会が安倍支持、平成研は自主投票という有様。これまで自民党内で戦後保守が果たしてきた安全弁の役割が機能していない。これは非常に危険な状況だ。戦後保守の基盤の上にある中曽根にはそもそも吉田路線からの転換は不可能だった。小泉政権の時もまだ、党内には戦争の恐ろしさを知る野中・古賀ラインによる抵抗勢力が存在した。山崎拓さんもいた。では、今の安倍自民党を誰が諌めるのか。岸田政権が誕生したところで中曽根政権の逆をやらされるだけだ。後藤田さんの代わりに甘利明あたりがお目付け役に回るのか。宏池会憲法改正の片棒を担がされるのか。戦後保守の立ち位置は非常に厳しい。

 


憲法9条と戦後保守

 


1990年代を境に日本を取り巻く安全保障環境は大きく揺らぎ、憲法改正の議論が勢いを増している。池田が横に置いた安全保障の問題、9条を守るという路線は、戦後保守にも根強くある。宏池会政策集団の性格を薄めてきたとはいえ、9条を守ることが今も最大最大公約数になっている。それは加藤紘一の歩んだ新しい戦後保守にも共通する。山崎拓さんは加藤紘一の葬儀の弔辞の中で加藤の憲法9条に対する考え方に言及した。山崎の「憲法9条の改正に本当に反対か?」との問いに加藤は「そうだよ。憲法9条が日本の平和を守っているんだよ」と断言したと言う。葬儀委員長の安倍晋三の前で山崎はこの弔辞を読んだ。宏池会は古い戦後保守と新しい戦後保守に分裂したとはいえ、9条を守る事では共通認識を持っていた。だだし、以上のような護憲路線の戦前保守は戦争を経験した世代が政界から引退していく事で担い手が減り弱くなっている。戦前戦中世代は05年には全議員の40%、自民党では50%が15年には国会議員、自民党議員ともに10%へと急減した。戦争経験をもつ世代が国会から去っていく事で戦後保守の理念がその内部から融解しつつある。

 


●戦争体験の果たした役割

 


宏池会の次世代リーダーの林芳正は「戦争を体験した世代は、本能的に戦争はダメだ、二度と戦争の体験はさせたくないというところがある。世代交代が進むと、何故ダメなのかを理屈で説明しないといけなくなる。集団的自衛権一つとってもらどうしてダメ、ということだけでは説得力がなくなってくる」と語る。従軍経験のある後藤田、野中、父親をレイテで無くした古賀の退場と共にこれまで、安全弁の役割を果たしてきた戦後保守の役割が機能しなくなっている。

 

 

 

 


戦後75年という時の流れで「戦争体験」の喪失という戦後価値体系を支えてきた大きな日本人の記憶が失われかけている。「戦争体験」という日本人の苦い記憶は平和主義だけでなく民主主義の運用や人権問題に至っても実に繊細に、慎重な行為を要求してきた。この「戦争体験」における戦後保守政治家の慎重なまでの政治的感覚が現在の自民党の保守政治家には欠けていると思えてならない。戦後日本社会は、いわば特権階級から庶民までの日本人全体に共有されていた「戦争体験」という日本人の精神意識を日本人的思考様式として成立させることにある程度成功したと言える。日本の学校教育における平和教育の貢献は計り知れないし、丸山真男始め、戦後知識人の果たした役割も大きい。野中広務は次のように嘆息する。「戦争体験を世代継承できなかったと反省している。自民党に謙虚さがなくなってしまった」と。戦後日本政治の安定を支えたのものは冷戦構造だけでは決してなく、戦後保守が果たした安全弁の役割が大きい。それを具現化してきた戦後保守の政治運用能力は冷戦構造が崩壊した後の90年代の政治状況を見る限り希望は持てると考える。

 


次の10年、2020年代のうちに戦争体験者はほぼ絶滅し、日本人の「戦争体験」に裏打ちされた思考様式は弱まっていく。これをどのように継承し、日本人の「古層」の上に構造化していくかが問われているのではないかと思う。