■没後50年 三島由紀夫と戦争体験

 

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戦争体験というものが必ずしも、戦闘の前面に出て人を殺したり、幾つもの死体を見てきた事だけを意味するものではない。三島が述べているように俺の方が多くのの死体を見たとか、俺の方が貧しい生活を送ってきたなどの一面だけを切り出して議論することはナンセンスである。三島のように戦争体験とは自分の肉体的劣等感、あるいは自分だけが生き残ったという虚無感や罪悪感。そして1945年8月15日を境に日本の価値観が180度転換した事への動揺と戦後日本社会への対応を迫られる事への生き辛さも含めての戦争体験が戦後社会を形作る大きな原動力になっていった。三島没後50年目の節目に日本人の戦争体験が戦後日本社会をどのように導き、形造ってきたのかを考える機会にしたい。

 


三島由紀夫と東大全共闘

三島由紀夫と東大全共闘。思想として相容れない右翼と左翼の最高の知性は共に対米従属と哲学なき日本の戦後社会への怒りを共有していたと思う。三島と学生に共通していたと考える「平和とは何か」という問いはこれからの平和教育を考える上でも必要な視点だと考える。戦争で生き残った三島世代と戦争を知らない世代の二つの罪の意識が戦後の日本を「こんな日本でいいのか?」という問いと憂いを共有していたと言える。三島は多感な青春時代を戦時下で過ごした。彼はその身体的劣等感と戦争で生き残ってしまった事に対する罪の意識と戦後日本社会の豊かさの追求の間で強く霹靂している。一方で、戦争を知らない世代である学生は経済的な豊かさが広がる日本で、自分たちは幸せになることができても、一方で米国を先頭に資本主義諸国の一員としてベトナム戦争に加担している事への罪の意識が存在する。それは自分達の意図する外で日本の方向性が示される事への危機感でもあったし、自己を発揮できる場を与えて欲しいというある種の新自由主義に親和的な若者のムーブメントでもあった。三島と学生に共通する一つの問いは「平和とは何か」という問いであり、それは「日本とは何か」「こんな日本でいいのか」という問いであった。両者の目指すべき方向は真逆でも日本の現状に対する危機感と経済的な豊かさを実感している平和な状態への違和感が罪の意識となり、平和というものを厳しく問い詰める意識として働いたのではないか。三島の戦争体験が仲間の死と罪の意識、戦後社会への虚無という2つの大きな衝撃を与えたとすれば、「戦争体験=戦争反対」というステレオタイプの図式に収斂されるだけでなく、三島の劣等感と罪の意識は戦後社会への虚無感と共に戦前回帰へと向かっていく。戦後日本の精神状況を大きく規定する日本人に等しく降りかかった戦争体験という物語の捉え方は個人の体験によって多様な意味を持っていると言えるのではないか。

 

● 「日本とは何か」という問い

戦争体験世代にとっての日本とはすなわち天皇そのものであり、日本人として一番重きを置くものが天皇への忠誠であった。それに対して戦後の日本の目標は経済復興であり、国家のあり方から個人の生活の豊かさが重視される時代に入った。三島は戦後の荒廃した日本人の精神状況を以下のようにように批判している。

現在の日本の精神状況はこの20年間で徐々に食糧が豊かになり、我々の市民生活が豊かになってきたことに耐えられなくなってきた。日本とは何だ。一体日本というのは経済繁栄だけの国なのか。日本という国はトランジスタラジオの商人でいいのか。日本という国はもっと他の何物でもありうるのではないか。これから日本という国は何だという事を非常に鋭く鋭く問い詰められていく段階にきている。

三島の抱えていた虚無とは一体何だったのか。それはこれまで日本が持っていた価値観が180度転換し、壊れてしまった日本の戦後という時代と三島の意識のズレである。戦後10年ほどは食糧難や米国占領など生きるのに必死で誰もが何もかも手探り状態の中で生活していた。この10年間は三島にとって生き生きと表現者として生きることができた。しかし、次第に今度は日本全体が価値観を取り戻してくると三島は戦後という時代に息苦しさを感じたのだろう。20代の多感な時期に戦前軍国主義から戦後民主主義への転換は三島の日本人としての価値観を大きく揺さぶり、「日本とは何か」という問いを厳しく問い続けた。グローバルな時代に突入する我々日本人は今再び三島の問いに直面している。

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