■私の青春ノート

加藤周一と青春ノート


もう青春とも言えない私が「青春ノート」と題打って文章を書くのは、偉大なる加藤周一 さんが東大医学部時代に付けていた日記である「青春ノート」にあやかってのことでありま す。加藤の青春ノートは彼の死後立命館大学で見つかった 8 冊のノートに記されており、 それは加藤の思想の原点と言えるものでした。加藤さんのそれには遠く及ばないにせよ頭 に思ったことを文章に起こす、生活綴り方として記録することで新たな学びが生まれるこ とを信じて筆を執りたいと思います。

 


加藤周一が没してからもう 10 年以上の月日が経ちましたがこの間に日本は加藤さんの意 思とは裏腹に戦争への道へと少しずつ前進しています。加藤さんの青春ノートには「医学生 の覚悟」として日本が太平洋戦争に向かっていく中で、日本社会の全体主義的な空気への違 和感を綴っていました。「大事件はいつも前触れなしに突然平和な何事も予期しない社会を 混乱の中に投げ込む、それまでは時は何事も静かに、戦争の前の日の空は美しく晴れ、子ど も達のたわむれている上を流れ去る」というような加藤さんの詩には社会への開眼と「歴史 は繰り返す」ことへの警戒感を伝えていることを感じます。加藤さんに限らず戦争体験に裏 打ちされた知識人や戦後の政治家には「戦争体験」が平和、人権、民主主義に対して敏感に 働いていたと感じます。それは加藤の記した「日常の喪失」に対する肌感覚的な危機感を日 本全体で共有していたためだと思います。この感覚を受け継いだ戦後世代に至っても 70 年 安保世代には継承されていた日本人の感覚であったと思います。

 


加藤さんの日本社会の捉え方は戦後知識人の中にあって社会科学的な視点だけでなくて 文学、芸術、歴史、政治など様々に視点から日本社会をとらえている点にあると思います。 歴史や民族を語る上で歴史を学ぶ意義はどこにあるのか。日本に限らずある社会や組織の 人類の決断は、純粋に合理的な計算に基づいてなされるわけではなく、過去の経緯に縛られ ることで社会的非効率性を生み出します。それは人間社会がその社会や民族の歴史性から 完全に自由になることが出来ないことを意味しています。つまり、歴史を学ぶことは自らの 社会、民族、自己を知ることであります。またそれは時間軸、空間軸における他者理解に繋 がります。日本という国のかたちを、その運営主体である日本人の特質を客観的に捉えなけ れば太平洋戦争のような悲劇を再び生み出すのです。生活綴り方運動の無限の可能性を秘 めているのかもしれません。