■この国のかたち〜正月

■正月

●正月の準備と年越し
正月の行事は元日を中心とした大正月と1月15日を中心とした小正月があります。暦の普及と共に元旦に歳神祭りや公的な儀礼が行われるようになりましたが、稲作農耕を営む人々の間には農作業にとりかかる適期である満月の日を重視する考え方が残りら太陽太陰暦で満月となる15日ごろに農作業の予祝儀礼が行われています。

●注連縄
正月を迎える前の準備では注連縄をないます。
注連縄は占めるの意で、神聖な場所に不浄なものが入ることを禁ずる印としての縄です。地域によって昆布やスルメ、みかんを吊す地域もあります。

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●門松
門松は家の入り口や門に飾る松で、農家では母屋ゆ納屋、土蔵にも立てていました。近年国分寺市内では雑木林の伐採により竹林が減少したため各家で作られることが少なくなりました。

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鏡餅
鏡餅は歳神様へ備える大きな鏡餅荒神様やその他の神々にお供えする小さめの鏡餅が作られます。都市部では賃餅と呼ばれる餅つき屋が臼と杵を持ち歩き家の前で餅つきを行ったそうです。

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若水
正月早朝には若水汲みといって家の主人や長男が井戸の水を汲む習慣がありました。正月から三が日は男が食事の準備をし、歳神様やご先祖様にお供えをします。

●初詣
初詣に関しては近年、氏神でない有名な大寺社に出かけることが多く見られますが、氏神様の神社にお参りすることが本来の初詣です。

●年始まり
正月二日は家の主人が神社なお寺へ年始に行く日で、嫁や婿も実家へ年始に行く日である。奉公人が実家に帰る藪入りは盆と小正月の16日。

●年賀状
年始の挨拶の手紙で、古くは平安時代の手紙の模範文集にあり、近世には諸大名が年始の挨拶状を将軍に届けていた。庶民に普及したのは明治4年の郵便制度発足後の明治7年から。


●お屠蘇
元日に無病息災、長寿などを願って飲む薬酒のことである。酒などに薬局で買った屠蘇散を加えてつくる。邪気払いの意味があり、元日を中心に朱塗りの三重ねの木杯でいただく。

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書初め
二日に子どもに筆で字を書かせる書初めをするところが多い。子供が書いた書初めを神棚や正月棚に貼っておくところも見られる。日本の小学校では冬休みの宿題として日本の文化である書初めが行われる所が多い。

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■寅さんぽ 甲府〜舞鶴城

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我が第二の故郷、山梨県の中心地甲府城にきました。南東には富士の頭が顔を覗かせ、北西には八ヶ岳をはじめとする雄々しき山々が雪を被っています。夜になれば甲斐善光寺の裏山から望む夜景は暗い山に囲まれた盆地での人間の生活と甲州人の輝きと重なってなんとも言えない気持ちになります。甲府盆地は素晴らしい!その一言に尽きます。

 

甲府盆地を見渡すにも、南アルプスの山々を拝むにも甲府城は眺望の良いところです。甲州と言えば武田信玄のイメージが強いのですが、武田家の屋敷は現在の武田神社の位置にあり、信玄は城郭を好まず、武田軍の館と称した方がいいでしょう。現在、舞鶴城公園として市民に親しまれている甲府城は武田家滅亡後の長い歴史の変遷を辿ってきました。

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甲府城の歴史

 

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。

天正10年(1582)甲斐国戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城甲府勤番支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。

昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。

昭和39年(1964)には都市公園舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。

■寅さんぽ 川越をゆく

川越は東京国際大学の最寄駅、霞ヶ関の辺りをぶらり歩きます。そこには義経後白河院の名前の石碑が至る所にあります!京都に迷い込んだのかと思いきや、川越の歴史と中央の密接な結びつきが見えてきました。

 

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坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされる(川越市史など)。

河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。

しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。

■寅さんぽ 諏訪を歩く


諏訪湖

ワカサギ釣りの名所である諏訪湖にはとこで釣り名人の佐々木と行ってきました。近年では温暖化の影響で氷が貼りませんが、2月には湖に氷が貼る事もしばしばあるとか。ワカサギは2人で40匹ほど釣れました!

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冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため膨張し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがります。この自然現象を御神渡りと呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だといいます。

 

諏訪湖片倉財閥

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ワカサギ釣りで身体が冷えた後は、諏訪湖畔に面する異様な洋館である片倉館という温泉で身体を温めます。

片倉財閥の代表者で片倉製糸紡績株式会社社長の二代片倉兼太郎が、創業50周年を記念して建てたものです。彼は欧米の視察旅行を行った際に、先進諸国では文化福祉施設が充実していることに感銘を受け、帰国後、諏訪に文化福祉施設を作りたいと切望。片倉同族の支援を受け、基金80万円で、片倉財閥関係者のみならず、一般市民も利用できる温泉施設を建設し、「財団法人片倉館」を設立しました。この温泉施設はテルマエ・ロマエ2の撮影にも使用されています。

 

諏訪湖を一望できるテラス。まるで三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊を前に決起を促し、割腹自殺した現場を思い出させるような高さになります。

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諏訪大社御柱祭

 

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長野県諏訪地方で行われる御柱祭では山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭です。祭りは大きく4月の山出しと5月の山引きに分けられます。山出しでは男の度胸試しにふさわしい木落としの見せ場があります。御柱祭りは7年に一度と言われるが性格には数え年で7年毎なので、寅年と申年に行われます。大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社でも同様の祭(小宮祭)が実施されます。その中で代表的なものが塩尻市辰野町飛地付近にある小野神社(信濃国二之宮)の御柱祭諏訪大社御柱祭の翌年(卯と酉の年)に行われます。諏訪の御柱祭の歴史は古く平安初期の桓武天皇の時代からと伝えられています。

 


●縄文文明としての諏訪

諏訪大社の神である建御名方神諏訪明神)については様々な伝承が伝わっています。『古事記』によると出雲の大国主神高天原天照大御神の使者達に国譲りを承諾したとき、ただ一柱反対した建御名方神は使者であった建御雷神に挑むも敗れ、追われることとなりました。結局諏訪湖畔まで逃げてきて降伏し、この地から出ないことを誓って許される。一方、諏訪地域では建御名方神が『古事記』の描写とは逆で、諏訪に侵入して洩矢神をはじめ先住の神々を降伏させた立派な神とされている。考古学者の分析では、諏訪の土着神の洩矢神を縄文の狩猟文化として、建御名方神を弥生の農耕文化に表し、二つの文化が共に共生する諏訪の信仰を表しているという。

 

 

■没後50年 三島由紀夫と戦争体験

 

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戦争体験というものが必ずしも、戦闘の前面に出て人を殺したり、幾つもの死体を見てきた事だけを意味するものではない。三島が述べているように俺の方が多くのの死体を見たとか、俺の方が貧しい生活を送ってきたなどの一面だけを切り出して議論することはナンセンスである。三島のように戦争体験とは自分の肉体的劣等感、あるいは自分だけが生き残ったという虚無感や罪悪感。そして1945年8月15日を境に日本の価値観が180度転換した事への動揺と戦後日本社会への対応を迫られる事への生き辛さも含めての戦争体験が戦後社会を形作る大きな原動力になっていった。三島没後50年目の節目に日本人の戦争体験が戦後日本社会をどのように導き、形造ってきたのかを考える機会にしたい。

 


三島由紀夫と東大全共闘

三島由紀夫と東大全共闘。思想として相容れない右翼と左翼の最高の知性は共に対米従属と哲学なき日本の戦後社会への怒りを共有していたと思う。三島と学生に共通していたと考える「平和とは何か」という問いはこれからの平和教育を考える上でも必要な視点だと考える。戦争で生き残った三島世代と戦争を知らない世代の二つの罪の意識が戦後の日本を「こんな日本でいいのか?」という問いと憂いを共有していたと言える。三島は多感な青春時代を戦時下で過ごした。彼はその身体的劣等感と戦争で生き残ってしまった事に対する罪の意識と戦後日本社会の豊かさの追求の間で強く霹靂している。一方で、戦争を知らない世代である学生は経済的な豊かさが広がる日本で、自分たちは幸せになることができても、一方で米国を先頭に資本主義諸国の一員としてベトナム戦争に加担している事への罪の意識が存在する。それは自分達の意図する外で日本の方向性が示される事への危機感でもあったし、自己を発揮できる場を与えて欲しいというある種の新自由主義に親和的な若者のムーブメントでもあった。三島と学生に共通する一つの問いは「平和とは何か」という問いであり、それは「日本とは何か」「こんな日本でいいのか」という問いであった。両者の目指すべき方向は真逆でも日本の現状に対する危機感と経済的な豊かさを実感している平和な状態への違和感が罪の意識となり、平和というものを厳しく問い詰める意識として働いたのではないか。三島の戦争体験が仲間の死と罪の意識、戦後社会への虚無という2つの大きな衝撃を与えたとすれば、「戦争体験=戦争反対」というステレオタイプの図式に収斂されるだけでなく、三島の劣等感と罪の意識は戦後社会への虚無感と共に戦前回帰へと向かっていく。戦後日本の精神状況を大きく規定する日本人に等しく降りかかった戦争体験という物語の捉え方は個人の体験によって多様な意味を持っていると言えるのではないか。

 

● 「日本とは何か」という問い

戦争体験世代にとっての日本とはすなわち天皇そのものであり、日本人として一番重きを置くものが天皇への忠誠であった。それに対して戦後の日本の目標は経済復興であり、国家のあり方から個人の生活の豊かさが重視される時代に入った。三島は戦後の荒廃した日本人の精神状況を以下のようにように批判している。

現在の日本の精神状況はこの20年間で徐々に食糧が豊かになり、我々の市民生活が豊かになってきたことに耐えられなくなってきた。日本とは何だ。一体日本というのは経済繁栄だけの国なのか。日本という国はトランジスタラジオの商人でいいのか。日本という国はもっと他の何物でもありうるのではないか。これから日本という国は何だという事を非常に鋭く鋭く問い詰められていく段階にきている。

三島の抱えていた虚無とは一体何だったのか。それはこれまで日本が持っていた価値観が180度転換し、壊れてしまった日本の戦後という時代と三島の意識のズレである。戦後10年ほどは食糧難や米国占領など生きるのに必死で誰もが何もかも手探り状態の中で生活していた。この10年間は三島にとって生き生きと表現者として生きることができた。しかし、次第に今度は日本全体が価値観を取り戻してくると三島は戦後という時代に息苦しさを感じたのだろう。20代の多感な時期に戦前軍国主義から戦後民主主義への転換は三島の日本人としての価値観を大きく揺さぶり、「日本とは何か」という問いを厳しく問い続けた。グローバルな時代に突入する我々日本人は今再び三島の問いに直面している。

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■河岸段丘の形成要因と多摩川が生み出した地形

河岸段丘の形成要因と多摩川が生み出した地形

河岸段丘とは
 河岸段丘は河川の浸食作用や土地の隆起によって形成される地形で、平坦な部分を段丘面、傾斜部分を段丘崖と呼ぶ。段丘面では地下水面が低く、段丘崖では湧水が出ることが多い。今回は多摩川がつくり出した地形である国分寺崖線をフィールドに河岸段丘の成り立ちから、崖線の湧水が集まる野川の河川環境の調査を行った。

河岸段丘の形成過程
 河川が大きく蛇行することで侵食作用によって谷底平野が広がっていく。次に土地の隆起や海水面の上昇により河川の下方侵食力が増大することで段丘面が形成されていく。河岸段丘の形成過程では、地殻変動による隆起だけでなく、気候変動による海水面の変化が大きな影響を与えたと考えられる。寒冷な気候では、海水面が低下することで、河川の下方向への侵食が進み、河岸段丘が形成される。

河岸段丘の土地利用
 河岸段丘の構成要素である、段丘面では平面の土地利用として果樹園や畑などの農地が見られます。一方で傾斜のある段丘崖では雑木林が広がり、湧水の源泉として別荘などの立地に適しています。低い段丘面では水田がよく見られます。


○高校地学での河岸段丘の取り扱い
 大きな河川の所々に、段々の地形が残されている。これは過去の河川の跡であり、河岸段丘とよばれる。一般には、高い位置の段丘ほど古い時代のものである。河川における堆積作用と侵食作用の大きさは、気候変動や地殻変動、海洋順変動の影響を受けて変化する。海水順が高い時には、緩い傾斜の平野部の河川では、河川の周りに洪水時の氾濫原堆積物がたまる。また、蛇行を繰り返す河川が発達し、蛇行した河川は洪水時に新しい流れが形成され、河川の位置を変える。一方、今から約2万年前の最終氷期には、海水準が約120メートル以上も下がり海岸線が大幅に交代した。そのため、河川の下流の勾配が急になり、下流域で川底の侵食(下刻)が起こり、それまでの海岸平野や氾濫原を削って段丘をつくった。海水順の相対的な変動は、氷河の消長による場合のほかに、地殻変動によっても起こる。このように、気候変動や海水順の上下に伴う堆積作用と侵食作用の変化によって河川の位置の変化や平野の発達が起こり、また海水順が一定であっても地殻変動によって隆起して段丘が形成される。(もう一度読む数研の高校地学)

○高校地理での河岸段丘の取り扱い
 沖積平野は、一般に水の便が豊かで、水質もよい。また、土地の隆起は、しばしば河川の下刻をもたらし、急氾濫原が高い位置に残る。これを河岸段丘と呼び、たびたび隆起のあったところには数段の段丘がみられる。(もう一度読む山川地理学)

多摩川河岸段丘

○立川崖線
 立川崖線は立川段丘面とその下の面の間にある崖線で、昭島市拝島駅の南方から宮沢を経て、立川柴崎町の普済寺に達する。そこから谷保天に向かって甲州街道の北側を平行に走り南武線分倍河原駅まで延びている。立川崖線の下では数カ所で湧水が見られ、立川市国立市に広がる矢川緑地も含まれる。

○青柳崖線
 青柳崖線は、青柳段丘面と沖積地の境にある崖線である。立川普済寺付近から国立市谷保天満宮付近まで延び、連続した斜面林の景観を良く残している。ハケ下には「ママ下湧水」などがあり、豊富な湧水に恵まれ、沖積地に広がる水田の背後に斜面林がある。
 


○古多摩川が造った国分寺崖線
 国分寺市を横断する国分寺崖線は、通称「ハケ」と呼ばれ、国分寺の地形の特色を示すもので、武蔵村山市付近から始まり、国分寺市内ではっきり姿があらわれ、小金井、三鷹、調布、世田谷へと続き、総延長20キロに及ぶ。武蔵野台地の原型は、今から15万年〜7万年前までの、地球が比較的温暖な時代に、多摩川が流路を変えながら大量の土砂を堆積して造りあげたもので、青梅付近を頂点とした扇状の地形をしている。その後、約3万年〜1万年前ごろ、地球の寒冷化に伴い、海面が低下することで、多摩川の流れが急になり、武蔵野段丘面を削り取り、現在の武蔵野段丘と多摩丘陵の間に河川を広げ、立川段丘面を造りあげた。

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*野川の源流となるお鷹の道湧水(現在の日立研究所が主な源流)

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貫井神社の境内からも清水が湧き出る

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*かつて境内には湧水を利用したプールがあった

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*野川は国分寺市小金井市で管轄所が異なるため国分寺市側はコンクリートで覆われている

 


多摩川周辺の地質調査
 地層面の下はそれぞれの時代に堆積した地層が何層にも重なっており、表面の黒土層と関東ローム層は、主として火山灰起源の風成層である。粘土質砂層と青柳砂礫層は多摩川が運んできた地層、上層層群は東京の基盤となっている地層である。

・黒土層
→約5千年前以降の地層。浅間山富士火山の噴火による黒煙火山灰と、有機質からできる層。
関東ローム層(青柳ローム層)
→約1.5万〜1万年前の地層。古富士火山の噴火時に飛来した火山灰が積もる。
・粘土質砂層
・砂礫層(青柳砂礫層)
  →約2万年前の地層。多摩川が運んできた砂や石の層。雨水はこの礫層を浸透し、粘土層の上を通る。礫層が露出する凱旋から地下水が湧出する。
・粘土層
  →約50万年前以前の地層。層内からは会の化石が産出する。

 

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※段丘崖(ハケ)では赤土の関東ローム層が確認できる

◎野川の生き物

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*オイカワ*シマドジョウ*外来種グッピー

○参考文献 『くにたちの河岸段丘ハケ展』 くにたち郷土文化館
平成二十四年度 秋季企画展 ハケ展 くにたちの河岸段丘

 

 

■箱庭療法と日本の伝統・文化

箱庭療法実践と日本の伝統・文化教育の教材開発研究

 

 

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教育心理学の一環で、箱庭療法は当初、主に特別支援教育や子ども用のセラピーとしてユング研究所の河合隼雄によって日本で発展してきた。複雑な概念や言語構成の発達が未熟な児童に対して箱庭を用いる事で抽象的な表現の中で自己表現を行うもので河合は欧米と比較して非言語的表現の多い日本の文化に適していると評価している。 

 


日本には伝統的にお盆の上に石を置き、風景を作る盆石や盆景など古くから箱庭で遊ぶ文化があったという。江戸末期から明治にかけて盆景の系統的な流派が形成されており箱庭療法の取り扱い次第では日本の伝統文化としての一側面も含んでいる。

 


●対象に想定される児童

 


現在、特別支援教室に週2日おじゃましており、小学校低学年の児童の中には自分の感情や思いを言語化できない子どもがおり、土いじりが好きな児童に箱庭療法を用いた自己表現の成功体験を積み重ねることができると考える。

 

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●教材観
家庭で出る菓子折りの空き箱やペットボトルなどを盆器として用いる。また、山間部に位置する学校では紅葉や松のこぼれ種から発芽した樹木が多くある。また、都留市では盆景に用いやすい富士山の噴火でできた火山岩がそこら辺にゴロゴロ転がっている。また、盆化粧として用いる苔は奥が深く山間部であれば多種の苔類を採取することができる。また、本教材は小学校低学年の生活科の単元にある「秋を見つけよう」などの季節を発見する学習との関連性も有する。