■寅さんぽ 川越をゆく

川越は東京国際大学の最寄駅、霞ヶ関の辺りをぶらり歩きます。そこには義経後白河院の名前の石碑が至る所にあります!京都に迷い込んだのかと思いきや、川越の歴史と中央の密接な結びつきが見えてきました。

 

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坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされる(川越市史など)。

河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。

しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。