■寅さんぽ 甲府〜舞鶴城

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我が第二の故郷、山梨県の中心地甲府城にきました。南東には富士の頭が顔を覗かせ、北西には八ヶ岳をはじめとする雄々しき山々が雪を被っています。夜になれば甲斐善光寺の裏山から望む夜景は暗い山に囲まれた盆地での人間の生活と甲州人の輝きと重なってなんとも言えない気持ちになります。甲府盆地は素晴らしい!その一言に尽きます。

 

甲府盆地を見渡すにも、南アルプスの山々を拝むにも甲府城は眺望の良いところです。甲州と言えば武田信玄のイメージが強いのですが、武田家の屋敷は現在の武田神社の位置にあり、信玄は城郭を好まず、武田軍の館と称した方がいいでしょう。現在、舞鶴城公園として市民に親しまれている甲府城は武田家滅亡後の長い歴史の変遷を辿ってきました。

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甲府城の歴史

 

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。

天正10年(1582)甲斐国戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城甲府勤番支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。

昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。

昭和39年(1964)には都市公園舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。