■尊厳ある介護と教育について

・尊厳ある介護と教育ついて


人は誰でも老いていつかは他人のお世話になる時がくる。それは若い時にいくら大金持ちでも、社会的に出世した人でも、誰かの介護が必要になる時がくる。老いて介護されるということはどういうことか。自分の好きなものが食べれなくなる。うんちが漏れてしまう。今までできていた事がどんどんできなくなる。今まで尊敬されていた自分が周りの人からは小バカにされたように感じる事も多いだろう。介護されることは屈辱的な事であるのではないか。20年そこらしか生きていない私たちは多くの経験を積み、何十年も生きてきた人の誇りや尊厳の大きさを想像できない。ましてや戦前の家父長的家制度の中で育った祖父母世代は私たちの考え方や生き方に虚構を感じているのではないか。それを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 


高齢化社会が到来する日本で介護のあり方はしっかりと議論されなければならない課題である。それにもかかわらず介護現場の実態は満足できるものではない。私は榎本家に入ってから介護というものを通して多くの事を学んだ。介護が必要なお年寄りでも尊厳ある生き方を保証しなければならない。祖父が朝起きて何を食べるのか、何を着るのか、それはおじいちゃんの自由意志を尊重しなければならないのである。それを「体に悪いからこれは食べてはダメ、これを食べなさい。」「ここにじっとしてなさい」と管理しようとすることは1人の人間としての人権を侵害することである。人間として当たり前の生き方を制限される。こんな馬鹿な話はない。これは介護現場だけでなく学校現場でも子ども達の自由意志を強制的に管理する事は人間としての生き方を否定するものであり、こんな環境で子ども達が真っ当に成長できるはずがない。介護は管理ではない。確かに管理しなけれはならない事案もある。しかし、それは曲がりなにも一家の当主として生きてきたその人の人生の背景をしっかりと尊厳ある態度で受容して行わなければならない。社会的弱者である子どもやお年寄りを丁寧に礼節を持って接していかなければならない。教室も介護現場も居心地の良い空間が必要であって競争や管理の場であってはならない。尊厳ある介護と教育を問い続けていきたい。

 

 

 

・敬老の心、親孝行の精神

 


私の大嫌いな言葉に「老害」という言葉がある。人生経験の浅い私たちが目上の人に対してこのような言葉を簡単に口にするこの異常事態はこれまでの教育現場に責任があると考える。戦後の日本ではそれまでの家父長的家制度への反省から親孝行や敬老の心を学ぶことを親孝行の強制や保守的思想教育として敬遠してきた。親孝行の精神や敬老の心は自ずと湧き出てくるものと言われたのだ。しかし、現実問題は介護現場でお年寄りを敬うのではなく手のかかるヒトとして扱う人も多い。まして、自分の親の老後も考えず自分の快楽のみ考えている人間もいる。私達若者に取って耳の痛い話ではあるかもしれない。しかし、これを放置すれば自分の首を締めるも同然のことである。お年寄りが住みにくい社会は暗黒の社会でしかない。日本人が健全な忠孝の精神を共有できる社会を取り戻していきたい。