■沖縄慰霊の日

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沖縄戦に対する本土の認識不足

 

四年前に高校時代の野球部の先輩と沖縄を訪れた。初日の夕方、先輩達は沖縄の忠霊塔のある公園に車を止めて肝試しをやると言い出した。私は沖縄戦の犠牲者の前で、そのような敬意を失した行為はできないと思って先輩にたてついたので僕は先輩達に置いてかれて車の前で先輩たちの帰りを虚しくずっと待っていた。

 

半年後に再び、大学の与論島の友達の家に遊びに行き、本土に帰る前に一日、タクシーを一台借りて沖縄南部の戦跡を巡る事にした。最初、この旅の目的を何も知らなかったタクシーの運ちゃんは僕が南部戦線の戦地に足を運ぶのを「パワースポットに興味がある人」と認識していて「この近くにパワースポットで有名な滝があるけど行きますか?」と不機嫌に紹介してくれた。その後、運ちゃんに今回の旅行の目的を話すと、子ども時代にB円札で駄菓子屋に行った話など米軍統治下の体験を話してくれた。

 

大学在学中、2回の沖縄旅行の経験は、本土の人間の戦争に対する認識の欠如と沖縄県民の溝を僕の前に浮き彫りにした。あの沖縄戦をパワースポットや肝試しという言葉で片付けて良いはずがない。今の私達の平和な暮らしが沖縄戦の犠牲者の上にある事を自覚して、尊厳を持って慰霊を行わなければならないと強く思う。

 

沖縄戦ホロコースト写真展示館

 

2回目の沖縄旅行で一番印象に残ったのは、ひめゆりの塔でも平和の礎でもなくて、那覇市の小さな写真館だった。沖縄戦ホロコースト写真展示館は、沖縄国際平和研究所理事長・大田昌秀沖縄県知事の「戦争のない平和な社会創出」への熱い思いによって開設された。大田昌秀は、1945年、太平洋戦争最後の激戦となった沖縄戦鉄血勤皇隊の一員として動員され、沖縄本島南部の激戦場に投入されたが、奇跡的に生還。以来、戦後67年間、沖縄戦とは何かを問い続けてきた。

公営の平和記念館が軒並み戦争の被害を語る写真を撤去していく中で、民間の写真館には沖縄戦の実態を隠さずに展示していて強い衝撃を受けた。写真館は僕一人しか見学者はいなかったし、照明が暗かったので正直怖くて身体が震えた。写真館を出ると沖縄の湿度と歓楽街の雰囲気が身体を包んで何とも言えない気持ちになった。前日に友達と泳いでいた綺麗な青い海の沖縄のイメージと沖縄戦の白黒写真の灰色のイメージの二つの沖縄を感じた。

 

沖縄戦の真実を伝える意義

 

戦後75年が経過して、反戦平和教育が子どもの関心を持たないという批判と直接的暴力に限定された反戦平和教育が構造的暴力や文化的暴力の視点を含んでいないという指摘から、豊富な先人の優れた実践に学び、平和教育の発展的な継承が必要だと考える。しかし、平和教育の中にある、戦争と平和を扱う直接的平和教育を否定して、間接的平和教育の比重を増やすことは本末転倒だと考える。平和教育という広い概念の中で、せめて歴史教育としての戦争教材の中で、戦争の非人間性を直視しない平和教育では日本人の平和を追求する意識の背骨部分が抜け落ちる。自由主義史観研究会高橋史朗の批判する「感情に訴えるだけの反戦平和教育」という指摘は戦争の悲惨さを教えれば自動的に平和を築く子どもが育つわけではないことは確かである。しかし、その事は戦争の実態を教える事を退ける論拠にはならない。戦争の悲惨な実態を学習する事は非暴利を志向し、世界の平和への主体性を持つことの必要条件である。それだけでは十分でなくても、戦争の真実から目を晒すことからは何も生まれない。