■「はだしのゲン」は終わらない

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今、自分の少年期を振り返ると多摩地域特有の学校環境で、担任の先生も司書の先生も熱心に平和教育をやってくれた。小学生の時、休み時間に図書室に通って読んだ「はだしのゲン」の衝撃は忘れられない。あの10巻の漫画の中には、原爆の惨状だけでなく、「国家」という概念(警察、そして学校も)や全体主義の恐ろしさも読者に訴えかけている。


また、「はだしのゲン」には幻の続編がある。作者の中沢さんは続編のテーマとして、被爆者への差別が原爆の被害をかき消していくという悲劇を描こうとした。

はだしのゲン」には核の問題、差別の構造、国家と全体主義など現代社会の問題を考える視点が詰まっている。戦争体験を学ぶ事で、戦時下という異常事態を通して国家や民族、指導者と民衆、正義などの概念を考える事ができるのではないか。「戦争を学ぶ」だけでなく「戦争を利用して学ぶ」事ができるのできると考える。戦争という異常事態からコロナ渦の非常事態に対する教訓を学び、現代の排外主義的ポピュリズム全体主義に対する付き合い方を引き出す事ができるのではないか。戦争、被爆体験を陳腐化させるのではなくて、「戦争を学ぶ」から「戦争を使って学ぶ」学習に転換させる事で平和教育の継承ができると考える。

 


平和教育で戦争を扱う

 


冷戦終結後も戦争と原爆がいろんな姿に形を変えて世の中を闊歩してる。未だにヒロシマナガサキという言葉は伝わっても核の恐ろしさは伝わっていない。反戦反核平和教育マンネリズムかもしれないがこれは永遠のテーマだ。肥大化した広義の平和教育に重点を置くと本当に大切な部分がすっぽり抜け落ちてしまうのではないかという危機感がある。戦争という国家的国際的レベルの問題を、日常における平和の問題に全て代用する事はそもそも無理がある。大切なのは戦争という大きな問題と日常の問題をどのように切り結んでいくかを考えていきたい。

 


はだしのゲンで学んだ事

 


「国家」とは何か。マックス・ウェーバーは著者『職業としての政治』で「国家」を唯一合法的に暴力を行使する事ができる暴力装置であると定義した。(暴力の独占)

「国家」による暴力装置は具体的には警察と軍隊の二つに分ける事ができる。前者は主に国内の治安維持を担い、後者は国外からの安全保障面での役割を期待される。つまり、軍隊が国家の主権者たる国民に銃口を突きつけることは国民国家においてあるまじき行為であり、許される事ではない。しかし、あの太平洋戦争の終盤の沖縄戦では日本軍が沖縄の民衆に銃口を向けた。国民を守るはずの軍隊が国民を殺す。沖縄県民は日本国民ではないのか?天皇主権から国民主権に代わり、自衛隊文民統制する事に成功したとしても、戦争という精神の極限状態では必ず弱い立場の人間が殺されていく。如何なる制度・仕組みを構築しても戦争というものが起これば全てなし崩し的に崩壊する事を日本人はあの戦争から学び、次の世代に継承していかなければならないと思った。

 


「国家」による直接的暴力の伴わない形態による国家権力の行使が教化、教育である。立川談志は戦前と戦後の価値観、自らのアイデンティティが昭和20年の終戦を境に180度ひっくり返った事で、世の中の全てを疑う目を持つようになったと言っていた。太陽は昨日と変わらずに東から出て西に沈んで行くのに、自分の観ている世界がガラッと変わる。自分が違う国に来ているような感覚に襲われる。素直で勤勉な心を持った子どもほど自分が築き上げてきた価値観が壊された時に、対応できなくなる。戦時下の教育は批判的思考力のない子どもの世界観を幾らでも都合の良い方向に調節できることを証明していた。

 

 

 

平和を構築していく視点として、対外的な安全保障を考える視点は必要だ。しかし、対内的な国家権力の暴走を監視する視点の両輪が揃って狭義の平和の構築が実現できるのではないか。

 


平和を構築する視点として、現実を踏まえた理想を目指さないければならない。でも、理想を追いかけない社会に未来はない。学校というところは理想を語るところだ。